昭和50年02月10日 朝の御理解



 御理解 第76節
 「人間は人を助ける事が出来るのは、有難い事ではないか。牛馬は我が子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
 
 人を助けてる事が出来ると言う事は有難いんですけれども、私は人を助けると言う事でも、勇気がいると思うですね。只そこに難儀の状態を見ます、只それをあヽ気の毒だなあと言うて、見過ごして行くのでは、助けた事になりません。矢張りそれにはそこには勇気がいります。例えばそこに人が溺れておる、そりゃ泳ぎを知らんなら、もう仕方が無いですけど、泳ぎを知っておるならば、それに飛び込んで行かにゃなりませんから。やっぱり勇気がいるです。
 勇気がないとみすみす助けられるものでも、助ける事が出来ません。だから私は今日それを、まあいろんな事から、それを思うんです。人を助けると言う事にはね、確かに有難き勿体なきがなからなければならないと同時に、その有難い、勿体なきがなからなければ、言わば元気も出ません、本当の元気は。そこで始めて、人を助ける事が出来ると言う訳です。実は私も昨日色々助けられた事があったんです。
 昨日は朝から親教会に、昨日は終日おかげを頂いとりました。昨日は火葬に附せられたものですから、昨日で言わばまあー密葬が終わった訳です。それで最後のお祭りが終わりましてから、最後のお祭りが葬後祭と言うのが御座います。そのお祭りが終わってから、御直会を頂いた訳で御座いますけれども、私が今度葬儀委員長と言う事になりましたので、問題が沢山あるらしいんです。
 こっちはもう呆気のごとしとるですけども、それも私昨日一昨日もそのう感じない事はなかったんですけれども、そんな問題をはらんでいるとは思わなかった。実は私にあちらの総代さん方が、もうどうでも大坪先生、今度あんたが葬儀委員長になて呉なければでけないと、もう再三断りましたけれどももう仕様がない。丁度その時に北野の先生が前に座っとられました総代さん達にこう言う事を言われる、あんた方は大坪さんに葬儀委員長を頼みよるけれども。
 是はね家族の者が、家族の者の一番信用のおける者に頼むのが道だよ、と言われるのです。淵上先生と岸先生が、私にそれこそ辞を低うして頼みよる所へそう言われるもんですから、二人がカッと来た訳ですよね。そしたらそれを横で若先生が聞いて居られましたから、若先生が改まって、そんなら家族の者の私が頼もうと言うて、私に改めてお頼みがあったものですから、もう抜きも差しも出来ん。
 お断りする事も出来なくなった訳なんです。そんな訳でありましたから、その晩にまあ、親戚の特に行徳先生やら北野の先生が偉い先生が居られますから、また福岡の吉木先生が今度斉主をなさいますから、色々話があったらしいんです。たまたま昨日、葬後祭の御直会の所で、一杯機嫌での所で、福岡の先生、荒巻先生、それから北野の先生、それから西原教会の田中先生、そうすると私がまあ、そこにおる訳です。こちらはすぐ、繁雄さんが昨日は一日御用頂いて下さり。
 本当に私昨日、思いました。正義さんが、昨日車を御用頂いて呉れまして、本当に面目を施しました。昨日もやっぱり、ここの信者総代なりが行っておらなければ、いけない事が幾らもあったんです。それで本当に私は只、私の体が不自由ですから、その為に繁雄さんに来て頂いたんですけれども、矢張り来て頂いとって良かったと思いました。それに正義さんが大きな車を持って行っとりますから。
 その大きな車が無い訳なんです火葬場にに行くのに、それでその偉い先生方は、あれでやっぱり送ったり迎えたりせにゃいけない訳ですから、それを正義さんが一人で受け持って下さいましたのでね、私はそう言う意味合いで面目を施し、いわゆる助けられました。そんな事で御座いましたが。私は黙って聞いとったんですけれどね。とにかくねうちの荒巻先生、言わば三井教会の教会長は、三井教会長であって同時に、久留米の教会長だぞ、と言う訳なんです。
 だからその言うならば、大坪さんぢゃ貧弱だと、ともう言わんばかりの話をしとられる訳です。色々とそしたらそれを聞き兼ねられたんでしょう、西原の田中先生が、幸い此処に委員長先生も見えられとるとぢゃから、そりゃあぁた委員長先生の一遍、御意見を伺おうぢゃないですか、と言うて下さいました。それで私が申しました。それはね成程、久留米教会の教会長、三井教会の教会長、先生方が言われるのはね、格が違うと言う訳なんです。そりゃ格が違う事は間違いないです。
 三井教会と言うなら久留米教会とは、一等教会の教会長ですから、格が違う事は間違いないけど、三井教会の信者、信奉者又は弟子、教え子としてはね、情感の上から言うても、やはり三井教会長として仕えたい。しかもその三井教会長が、久留米教会長を兼務しておられた言う事は、只内容だけで良い事はないですかと、私が申しました。そしたらそれにまあ、ろんな理屈を付けて、難かしいことを知っとると言う事は、私は本当にいけない事っだと思いますね。
 是は例えば、私の方あたり言って、此処では秋永先生が委員長になって下さいましたから、もう万事お任せします。ですからあの様に見事な、文句言う段ぢゃない、もう感謝ばっかりで御座いましたが、もう皆いろんな事詳しい方ばっかりですからね。もう私昨日の朝、出掛けにお願いして行ったらね、もう蛇がもう一杯ぐちゃぐちゃこうやっておる所を頂いたんです。もう足の踏み場がない位です。私は大体蛇は怖くないのですけどね、けれどもそれでも気持ちが悪い様なんです。
 蛇がもう一杯足の踏み場もない様な状態で、はヽ昨日から一昨日からずうっと思うて、私の足の踏み場もない様な状態だなと思うて、思いましたけどあれが何年か前だったら、もうくうーとしてしまって、私はもうああたもう親教会に行くたんびに、先生あなたはくーっとして帰って来ると言いよりましたが、もう一つも障らんでおる事にもう驚きました。昨日は。そんならその横のその話を聞よるならば、なら私が委員長を止めさえすればよかろうもんと、言う様な感じでしたけれども。
 まあ兎に角もうなら今更、言わば例えば案内の回状も回っとる事ですから、抜きも差しも出きんのですから、私が受け入れるより外はないのですけれども、まぁとにかくまそしてね、私はこう思うんですよと言うて話ました。私が委員長を承はらして貰うてから、先ず思いました。先ず霊様に喜んで貰い、勿論神様にも喜んで頂き、遺族の方達にも満足とまでは行かんでも、喜んで頂けれる葬儀にならなければならないと。
 その事ばかりを実は願っておりますと、そこでなら私の手や足になって下さる方達が、ならもうそれこそ抜け目のない、ばったりとも言わせん方達ばっかりですから、その方達にお願いし、またその方達も、私達もそこん所手に足になるからとの条件で、私は委員長を承ったんだから。只その責を負うとか、取らなければならないなら、委員長ですから今申します様に、神様も霊様も、また遺族の方達も喜んでもらえる様な葬儀になる事を祈り願わして頂いとりますけど、結局どう言う事になるかと言うとね。
 結局は神様に喜んで頂けれる葬儀と言う事になるのです。神様に喜んで頂く程しの葬儀なら、霊様が喜ばれん筈がないです。遺族の者が喜ばん筈がない。それでもし喜ばんなら、喜ばん方がどこか間違うとると、私はそこまでは言わなかったけど、そんな話をしたんです。私しは傍で繁雄さんも聞いて居られるし、正義さんも聞いて居られましたからね、こりゃ仲々難しい中に、こりゃ親先生愈々大役を承はられたもんだなあ、と思うて聞いておったろうと思いましたけど。
 それでもね私の心の中には、もう一つも動揺がありませんでした。くうっとする様なことは勿論、さらさらありませんでした。こりゃおかげを頂いたもんだなと自分でも思いました。そしたら向こうの方でお相晩してまわりよりました。あまりに聞き兼ねたんでしょう、もう、御神酒がすわってました、岸先生がやって参りまして、先生方あんた方は何ば言いよっるとのち、三井教会の教会長の葬儀を、例えば言うならば、たった一人の弟子でありたった一軒の出社だ。
 合楽教会は親先生にとっては、そりゃ北野もあれば星野もあるけれど、それは先代の時代の出社だ。荒巻先生の弟子としてそしてたった一軒の出社合楽だと。合楽の教会長が委員長努めると言う事にどこがいけんかと言う訳です。それこそ一遍ぶっすりに言いましたから、先生方もじゅんとした様な状態でしたけれども、矢張りそれにはね矢張り皆んなも聞いてますから、皆も同じ様なことを感じたんぢゃなかろうかと思うです。
 本当にこの時助け舟の一つも出したいだろうと思うです。けれども偉い先生方ばかりだから、誰もそれを言う事を、黙って聞くだけで御座いましたけれど、有難き勿体なきが入っとるもんですからね、岸先生ですから自分達がそう言う事であったから、そう言う風に、言うなら助け舟を出して下さった様な感じでした。それから私は思うんです、人を助けると言う事にも、矢張り元気が要るなと言う事をです。矢張り皆さん、有難き勿体なきと言うものがあるとです。
 寒い時でも寒さを感じん、嫌な事も有難き、勿体なきがあったら言えれる。今日は愈々あちらの月次祭でもありますから、又今日は朝から参ります。又色々と話合いがありましょうけれども、今日はあちらの総代幹部を集めて、是は葬儀委員長として、私は一つ皆さんに、是がね例えば昨日、岸先生が一杯機嫌で私に言うとですもん私に「大坪先生、今日までは私はあんたにお礼は言わん、愈々あんたには明日から働いて貰わんならん、今日は頼みの盃ばい」と言うて、冗談を言うて私に盃を差すんです。
 けれども本当に解ってないと言う事は、仕方がないもんだなと思いました。そう言う時に、神様が笑いなさるとぢゃないだろうかと思う。実を言うたら、昨日私は眼には見えてしとりませんけどね、私の今度の大体考え方は、もう私がどうしても気概に華やかになりますから、もう内場に内場に、誰ーーれも知らん様な判らない様な中で、御用頂きたいと言う思いで、御座いました。
 ですからもう形に表れてすると、それがかえって又、こりを積ませる様な結果になってはならないと思ったから、昨日私は繁雄さんに言うてから、是これこそもうお葬儀の費用などは、家からおかげ頂くから、それを葬祭料としてから、包んでおって下さいと言うてから、それを私は持って行っとった。実を言うなら、もうお供えしてあったんです。さあ岸先生はそれは解らない。ね。
 だから今日は、あんた何んにん出来とらんから、今日お礼を言わんばいと。是だけ有れば充分の葬儀も出来ると言う様な内容が、実は届いとるんです。けれども知らんと言う事は仕方がないから、こう言う事は、しかし口に出して言う事ぢゃないと、私は思いましたよ。幾ら心易い仲でも。今日までは、あんたが何にも出来とらんから、ね、まあ今日んとは頼みの盃ばいと言うて、なら頼みの盃受けようかと言うて、まあ言わば私と岸先生との仲はそう言う仲ですから。
 それで良いんですけれども、判らんと言う事は、言うならば肉眼だけではでけん、心眼の世界に入らなければ、本当のおかげにはならんと、初めて思いました。そこで私は今日はあちらの総代幹部を集めてです、私のもう兎に角、是は私が前々から思った事、若し万一そう言う時にはです、本当にそれこそ、借金してからでも、私は今度の葬儀は、決して形だけではなく、心も伴うた立派な葬祭、葬儀にならにゃならんと思うとるから、私がすると角が立ったり、きざになるから、結局あんた達がよかごと。
 一つやって呉と言う事をね、今日は一つ頼もうと思うんです。そしてなら今日一つ親戚の方やら、遺族の方達にも、どう言うなら風にして貰ったが良いかと言う事を、先生方にあんたどんが聞いち呉れんのと。そして聞いてそしてその答えが出て来たら、その通り又その通り以上のならおかげにして行きたいと思うから、一つ今日はその事をお願いするよ。今日明日の準備で御座いますから、それこそ準備早々怠りのない準備をして貰いたい。勿論私がバタバタする事が出来んから。
 皆さん方にお願いしますというお願いを、今日さして頂こうと思うのですけれどもです。ね。今日私親教会の御葬儀に関して、本当に昨日私は新聞を見さして頂きましたから、プラス、マイナスの日と言う事を書いてあったんす。はヽあ今日はこう言う事になるなと思うとったがです。本当に言うなら私が、葬儀委員長になった事がマイナスの様な気がするですけど、又それにプラス、そしてそこには何にもない、言うなら昨日私の心の状態であって、そう言う事が様々続いてあっとるけれども。
 心の中にはそれこそ、微塵もどげな事でも言うとも思わないし、そんな事なら俺はせんぞと言う気持ちも起こらないし、何にもない心の状態であった事を、まずは有難いと思わせて頂いて、言うなら昨日は助けて貰わんも、助かっとると言う様な感じでしたけれども、あのー兎に角人を助けると言う事には、先ずは元気な心がなからなければ、人を助けると言う事は出来ないと言う事を今日は聞いて頂きました。
   どうぞ。